田園調布

朝日カルチャー千葉の企画ツアーに3ヶ月に一度程度の頻度で開催される「目利きの東京散歩」があり、機会があれば参加しています。

田園調布駅前

元々は「古文書」の勉強機会を求めて 朝日カルチャーセンターにたどり着いたのですが、勉強を始めてしばらくして、先生が御本職の大学の役職制限から定期的な講義を持つことが不可能になり、中断となりました。

大学ご就職前は歴博に勤務されていたこともあり、房総に関連する古文書のご紹介が多く、千葉の歴史を学びながら、古文書に触れることができ、歴史好きには面白い講義でした。

まあお年寄りに歴史好きは多いようで、生徒はほとんどが常連さんのようでした。

従って、講義内容のレベルが比較的上がりすぎていて、古文書の初歩学力がない身にはちと、厳しいなと感じていました。

旧田園調布駅西口

朝日カルチャーとは別に、年に一度、千葉県文書館で開催される古文書講座があります。

受講希望者が多いので、抽選になっているのだと思いますが、なんとか潜り込み、幸いにも2年連続で受講できています。

田園調布駅前

こちらは初級、中級、上級に分かれていて、当然初級を受講したのですが、初年度の先生の教え方が、崩し字の覚え方などを丁寧に解説してもらえて、まさに初心者用というべき講義なだと感じました。

調べてみると日比谷図書文化館に開設されている古文書教室で講師をされている方ということが判りました。

当該教室は県の講習と同様、実力に応じたクラス分けがされていて、見合ったコースを選択することが出来る。

特に超入門者用の「古文書のいろは」コースがあることを知り、おれの実力的にはこれが妥当なのではないかと思いました。

「いろは」で基礎を勉強し、実力の付き具合で、「いろは」の先に進むか、ある程度読めるようになれば、自分で好きな教材を選んで、一人で勉強していくことが可能なのではないかと思いました。

ということで、 教室を鞍替えすることをにしたため、最近は朝日カルチャーセンターから遠のいた形になっています。

朝日カルチャーには、古文書の様に教室での講義形式の他に、外に出て、開設を聴きながら案内してもらう講座があり、古文書で通っているときから、面白そうな教室を見つけては、参加していまし た。

日本の乳業発祥の地嶺岡牧、チバニアンの現地、日蓮ゆかりの寺を巡る(鎌倉)等の他、今回の「目利きの東京建築散歩」で日本橋界隈、駒場から代々木上原、隅田川の始まり赤水門などを廻ってきています。

敦賀時代に比べると京都、金沢は遠くなり、代わる古都として鎌倉を歩きたいなと考えていましたが、その事始めとして、「日蓮上人の足跡をたどる」旅に参加しました。

大変面白かったのですが、こちらもやはり常連のグループができていて、ツアー終了後に毎回鎌倉駅周辺で打ち上げを行う盛り上がりようで、少々新規の人間が入りにくい感じがありました。

1回参加しただけに終わりましたが、少しだけ、鎌倉を知ることができましたので、まあ鎌倉を巡るのは一人でやってけばいいかと考えています。

今のところ、千葉、東京を歩くので手一杯で、もう少したったら、計画的に鎌倉を一人で歩き回ろうと考えています。

鳩山家 (番地は消してあります)

というところで今日は田園調布ですが、今回はメインターゲットになる建物がなく、街の雰囲気を愉しむという感じが強い感じでした。こちらも回数を重ねて、ネタ切れになってきていると言うことがあるのかも知れません。

田園調布は人口の過密化が進む東京の郊外に優良な住宅地を供給することを目的に実業家渋沢栄一らが開発を 計画したものである。

渋沢は 1918年(大正7年)、『理想的な住宅地「田園都市」の開発』を目的に掲げた田園都市株式会社 (目黒蒲田電鉄(現東急電鉄)の母体会社) を立ち上げ、1923年(大正12年)8月に売り出しを開始した。

田園都市構想はイギリスの社会改良主義者エベネザー・ハワードの提唱によるもので、著書『明日の田園都市』 (1989年)で、産業革命後の「農村と都市」の融合を唄った事に始まる。

ナイジェリア大使公館?

「人口の都市への集中を食い止め、田園に押し戻す」構想で、ロンドン郊外、さらにはドイツ各地で成果を挙げ、世界に広がりを見せた。

田園調布開発に当たって、渋沢等は参考とすべき街を求めて、イギリス、ドイツを視察したが、理想とほど遠く、アメリカに渡り、サンフランシスコ郊外セント・フランシス・ウッドに感激し、モデルとした。

同街は起伏のある土地を利用し、パリの凱旋門周辺のエトワールという環状道路と放射道路を組み合わせた街路の同心円パターンを持ち、俯瞰的に美しかった、ということのようです。

完成した街区の売り出し時の条件が下記の様であったと。

ヒュウガミズキ
  • 他の迷惑となる建造物を造らざること
  • 障壁は洒落典雅であること(生け垣の薦め?)
  • 建物は3階以下
  • 建屋面積は宅地の5割以内
  • 建築と道路の間隔が道路幅の2分の1以上
  • 住宅工費は坪あたり120~130円以上であること

工事費につて調べてみると国家公務員初任給の比較が出ていました。

大正15年には75円、平成16年には201,376円、から単純計算すると、大正時代の1円は2,685円に相当。とすると、120~130円はほぼ35万円/坪ということになる。

よく分からないけど、建坪100坪とすると上物3500万円って、倍半分程度の誤差を考えても、むちゃくちゃな数字ではない気もする。

田園調布と表記のつく地域は、田園調布駅周辺の田園都市株式会社が開発し分譲を行った地域と、この分譲に合わせて周辺の地主が土地区画整理組合を結成して宅地造成した地域の二つからなる。

高級住宅街のイメージで語られる際の「田園調布」は、田園調布駅西側に広がる同心円パターンの扇状街路付近の田園調布三丁目、四丁目の一部、及び世田谷区玉川田園調布の一部を中心とした一帯を指すということらしい。

扇状の街路がある西側は住宅専用とし、東側に商店街を配した構造になっていたのだそうです。 駅に着いてから、ランチするところを探しましたが、確かに東側にのみ、飲食店がありましたが、数は多くなく、顧客層の狙い目が難しい地域なのかと感じました。

田園調布駅は目黒蒲田電鉄が1923年(大正12)3月に目黒~丸子(現:沼 部)間に鉄道を開通させた時に建設されたもので、平成2年に駅の改造に伴い撤去された。 (東急電鉄「旧田園調布駅舎を復元」 )

旧田園調布駅舎のレプリカ

現在ある旧駅舎のレプリカは、解体時に地元から旧駅舎復元の強い要望があり、平成12年に外観を復元されたものなのだと。

設計は神宮外苑の絵画館や上高地帝国ホテル、川奈ホテルなどを設計した矢部金太郎氏によるとされ、講師のお話によると、神戸の風見鶏の館を設計したドイツのゲオルグ・デ・ラランデの作品の影響が見られるとのことでした。

特徴的な屋根の形は昭和初期に流行った マンサード・ルーフと称し、フランスのフランソワ・マンサール考案によ欧州中世期の民家に見られるものなのだそうです。

旧駅舎建設当時の資料は、設計原図 1枚と数枚の写真しか残っておらず、解体時に旧駅舎を細部にわたって計測した資料や、旧駅舎の屋根や壁などの一部をサンプル保存し ていたものを活用し、外観、色ともに旧駅舎を忠実に再現したのだそうです。

今日は田園調布駅前に集合し、一旦東側にでて、田園コロシアム跡に向かい、西側に戻って、同心円パターンの町並みを縫いながら歩き、宝来公園で一休み。

その後、多摩川沿いに古墳群を眺めながら歩き、古墳展示室を鑑賞、さらに歩いて、多摩川浅間神社にお参りし、最後は田園調布せせらぎ公園を抜けて、多摩川駅で解散というコース。

せせらぎ公園はかっての多摩川園跡で崖線沿いに流れる小川、湧水を利用した池などで癒やされる場所だなと思いましたが、閉園時間が切迫し、改造工事中でもあり、急ぎ足で通り過ぎて残念でした。

懐かしい響き、「多摩川園」は1925年(大正14年)温泉遊園地として開業、田園コロシアムまで敷地に含んだ広大な遊園地で、同年に始まった丸子多摩川花火大会と併せて、賑わった。園内の設計は矢部金太郎によるものだそうです。

宅地開発に押されて、規模を縮小していき、 丸子花火大会の中止、レジャーの多様化などによる集客力悪化により、1979年(昭和54年)に閉園したのだそうです。

歩きながら講師から大田区は太田区ではありませんからねとの説明があり、そう言えば、「おおたく」と書けと言われると、どうも太田道灌が思い浮かんで「太田区」と書いてしまいそうだなと。

大森区と蒲田区が合わさっての「大田区」と知り、今後間違えることはなさそうです。

田園調布の家並みはさすがの豪邸が軒を連ねていて、とても、個人の家とは信じがたい・・・それでも、歩いていると、ところどころに空き地も目立っているような気がします。

高額な敷地を相続していくことが困難で、土地が分割されていくというお話がありましたが、それもかなわず、空き地となるところも出てきているということなのでしょう。

田園調布にもこんな緑があるんだとちょっと意外な宝来公園でトイレ休憩をして、多摩川縁にでて豪邸群を離れた途端に、荏原台古墳群が姿を現します。

荏原台古墳群は、多摩川下流左岸の世田谷区野毛周辺から大田区田園調布にかけて広がる古墳群で、50基あまりの古墳からなる。 

田園調布には、東京都内で最大規模の古墳である荏原台古墳群のうち、田園調布古墳群があり、最古の宝莱山古墳と最大の亀甲山古墳がある。

この地域は武蔵野台地の南端部に位置し、多摩川によって作られた標高30~40mの河岸段丘上にあり、ここが武蔵国荏原郡に属していたことから荏原台と呼ばれ、古墳群名もそれにちなんで付けられている。

4世紀前半に田園調布古墳群の宝莱山古墳、後半に亀甲山古墳の大型前方後円墳が、末には中型の円墳がつくられた。

5世紀には田園調布地域には古墳の築造は見られなくなり野毛地区の古墳が増加、5世紀末になって、田園調布地域に古墳築造がもどる。

前方後円墳の浅間神社古墳が造られ、6世紀から7世紀にかけて多摩川台古墳群の8基の古墳を始めとする数多くの中型の円墳、前方後円墳が造られた。

そして7世紀中頃から後になると田園調布周辺では再び古墳の築造は見られなくなった。

宝莱山古墳は宅地開発により前方後円墳の円墳の部分に堀当たったようで、円墳部分は半分削られており、方墳と円墳のつなぎ目に歩道が貫かれていました。

以降、調査が進んだのでしょう、多摩川沿いに並ぶ八基の古墳、亀甲山古墳と連なった古墳群が保存されていて、古墳群が公園の形で残されていることは幸せな状況なのだろうなと・・・

地面の限られた日本が古きを残しつつ、自分達が共存していくことはあまりにも難しいこと・・・

歴史の広がりは平面的な広がりだけでなく、地層の積層としても広がっており、何を残し、何を潰すのか、少なくとも可能な限りの歴史を解明して、詳細な記録を残して行くことが大事なのでしょう。

多摩川浅間神社に到着する頃はすでに日が大分傾きかけてきました。結構、神社の階段がきつい、つらい人は自動車道を上ると楽ですよと。

本殿の構造は少し変わっていて2階建構造になっており、浅間造りと言うのだそうです。

恒例の集合写真を撮影し、せせらぎ公園に向かいます。団体で来るときには、皆を待たせるのがしのびないので、御朱印帳を持たない主義で、再度一人でお詣りしにこようと。

せせらぎ公園

せせらぎ公園は前記したように門限ギリギリに到着、大急ぎで通り過ぎて、多摩川駅に向かいました。

駅前で解散、自分はイタリア文化館での講演会に向かいます。

朝、自然同好会の会誌発行の会のお手伝いをして、田園調布に来たのですが、これから半蔵門に向かって、サクラの状況を見ながら、文化館まで歩こうと。

イタリア文化館

内堀通りをまっすぐ歩けば、すぐイタリア文化館だったのですが、勘違いもあり、北の丸公園に入り込んででれなくなり、武道館、田安門をくぐって、戻るという大迷走をして、到達します。

テーマは2015年のミラノ万博のイタリア館の建物と、ミラノ万博の跡地利用の話で、感激屋さんとしては大満足でした。

シエナ一丁目

北の丸公園でパンをかじりましたが、まともな夕飯を食べていなかったので、四街道に戻ってシエナ一丁目で生ハムでビールを美味しくいただきました。

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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