永平寺0129

1月28日は「かつみ屋」さんで新年会でした・・・ってもう4月ですが・・・

いつも仕事を手伝ってくれる本社の女性二人も参加して海鮮炭火焼で日本酒を楽しみました。意見は色々あったようですが、「仁左衛門」も「しずく」も美味しくいただきました。「仁左衛門」は特に・・・

永平寺多聞天、持国天

翌日女性の一人が水仙祭りに行きたいと・・・彼女は「ちりとてちん」の頃にも一度来ていて、その時には小浜を案内しました。結局、自分は一度も番組を見たことがなかったのですが・・・

もう一人の女性は午前中に帰りたいということなので、朝食後に二人を案内して金崎宮と気比神宮にお参り、駅まで送って、その後越前海岸に向かいます。

金崎 ランプ小屋
金崎 ランプ小屋

みぞれ混じりの雪がちらつく中、途中の越前海岸に水仙の姿は見えず、水仙祭りのテント会場にたどり着くと、そこも水仙の影は薄く、地元の人のお持てなしの場になっていました。

突きたての餅を御馳走になり、配布された水仙の花をもらって、まあこんなもんか・・・雪の永平寺でも行くかと・・・

いただいた水仙・・再掲です
いただいた水仙・・再掲です

越前から福井に抜ける山道は雪が深く、通行する車をしり目に除雪車が必死に作業を継続しています。坂道を登るのがちょっと怖いくらいの道の状態でした。

本格的な雪が降りだしてきて、織田神社にも寄りたかったけど、素通りして、ともかく永平寺に向かいます。

幸家さんから外を・・・墨絵みたいな雪景色が広がっていました
幸家さんから外を・・・墨絵みたいな雪景色が広がっていました

永平寺が近くなり、ちょっとほっとして手前の「幸家」に。ごま豆腐のセット料理と追加の豆腐でボリューム満点のランチを・・・その間も雪は降り続きます。

永平寺も当然雪の中です。永平寺は何回か来ていますがこんなに雪の深い時に車で来たのは始めてです。

幸家さんの駐車場
幸家さんの駐車場

ライトアップの時も雪は深かったのですが、酒を飲むつもりだったので、電車を利用しました。

何回も来ていながら、なぜか今までこのブログで記事にしていませんでした。今回のように人を案内してくると、人を待たせるのが気になり、写真の数が少なくなることがあるかもしれません。

永平寺
永平寺

一度、なにか行事のある時に行って全国から集まる団体さんとバッティングしてうんざりしたことがあって、今一思い入れが薄いということもあるようです。

とても感激した時がありましたが・・・ライトアップを見に行った時に、拝観時間限度まで粘っていたら、承陽殿で大勢の僧による勤行が始まりました。許されて、夕闇せまりくる中、少しの間、神妙な思いで拝観させていただきました。

永平寺
永平寺

司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズ「越前の諸道」では、永平寺の喧騒を嫌って、とうとう訪問しなかったことが書かれています。自分の感覚と似たような・・・とちょっと得意になったりして。

箱根で曹洞宗大雄山最乗寺をお参りしたことは前に記事にしましたが、やはり、多くの人が集まるお寺の色彩が強かったです。

永平寺
永平寺

曹洞宗というのは厳しい禅宗であるにもかかわらず、広い大衆の信仰に支えられていて、本山はメッカとして信者達が全国から集まってくるということで、その賑わいをとやかく言うのは傲慢なのかな・・・とも思います。

自分が落ち着ける場所かどうかというのは別ですが・・・

永平寺
永平寺

武生の街歩きでお参りした曹洞宗太平山龍泉寺は、雪ゆえか誰一人いませんでしたし、本多家の菩提寺の色濃い感じで、永平寺、最乗寺とはちょっと雰囲気が異なりました。

「越前の諸道」は道元の弟子で、中国僧、寂円が開基した大野の宝慶寺を訪問することから始まります。

儀式の訓練の休憩風景を撮らしていただきました。えらいピンボケです
儀式の訓練の休憩風景を撮らしていただきました。えらいピンボケです

司馬によると永平寺の後継者が道元の『只管打座』(ひたすら座禅をする)の精神を捨てて、大伽藍主義にはしり、大衆を惹きつける様に変貌して行くのを他所に、ただ一人、寂円が道元の遺志を継いで、宝慶寺で只管打座の教えを守ったのだそうです。

永平寺は道元禅師が1244年に開基した傘松峰大仏寺をあらため、曹洞宗大本山吉祥永平寺となりました。(曹洞宗公式サイト

永平寺
永平寺

道元禅師はひたすら真摯に道を求め続けた人生を過ごした様です。

「道元は公家の生まれながら、幼い頃に亡くなった母の遺言に従い、14歳で比叡山において仏門に入ります。

18歳で天台の教えにあきたらなくなり、答えを得られぬまま、天台三井寺の公胤僧正に教えを請うたところ、お前の疑問は唯一「禅宗」が解けると、臨済宗の栄西を紹介されます。

永平寺
永平寺

栄西との問答で疑問が氷解し、栄西の門下に入り、栄西亡きあと、その弟子の明全の基で学び、顕(天台)、密(真言)、禅、と日本で学ぶものを全て身に付けることになります。

求道の人、道元はさらに学ぶべき師を求めて24歳にして宋に渡りますが、師を見つけられぬまま26歳になり、諦めて帰国しようとしていた時に、如浄禅師に出会います。

永平寺
永平寺

如浄のもとで、ひたすら学び、ある日、「心身脱落」を知るに至ります。」(「座禅に活かす『正法眼蔵』」窪田慈雲)

道元の死後、路線を巡る争いがあり、大伽藍により大衆を惹きつける方向を目指した三世義介が敗れます。永平寺を去った義介は加賀に 大乗寺を開基し、「民衆禅」を広めます。

義介を継いだ大乗寺二世、螢山は、義介の路線を継承し、さらに道元の教えにはない、祈祷、儀式を取り入れて、大衆の心を捉えていきます。

螢山は輪島の総持寺(現在の大本山總持寺祖院)をはじめとした多くの寺を開基、加賀派とも言うべき曹洞宗を大きく広め、民衆に根付いた確固たる宗門に成長させます。

永平寺
永平寺

螢山は道元が遺した教えと異なる形だったのかもしれませんが、曹洞宗を民衆の宗教として確立した中興の祖というべき功績者となります。

曹洞宗では道元を高祖とし、螢山を太祖と呼ぶのだそうです。大本山總持寺祖院の公式サイトでみると・・・

永平寺
永平寺

「正しくは諸嶽山總持寺祖院と言い、1321年、 瑩山禅師によって開創され、翌年、禅師に帰依された後醍醐天皇が綸旨を下され、總持寺を勅願所として、「曹洞賜紫出世第一の道場」と定めた。

その後、隆盛を極めますが、明治31年に七堂伽藍を焼失、布教の本拠地を神奈川県鶴見区に移し、総持寺 とします。」

永平寺
永平寺

「一方、義介の去った永平寺では、争乱の影響で寺内が荒れるままになり、道元の表した大著「正法眼蔵」も散逸しますが、宝慶寺出身の義雲が、五世に就き、荒んだ伽藍を修復し、「正法眼蔵」を集めて、今ある姿に編纂します。

しかしながら、民衆とは別のところにある永平寺の孤高の禅は、義雲の後を継ぐ俊英も現れず、廃れて行きます。

永平寺
永平寺

永平寺は加賀派の財力に頼らざるを得なくなり、また加賀派も権威付けのための「永平寺ブランド」を求めるようになります。

加賀派の僧が永平寺を継ぐ例がでてくるようになり、本家が民衆を惹きつけた「民衆禅」に巻き込まれて行きます。

1501年、後柏原天皇により永平寺は「本朝曹洞宗第一道場」の勅額を下賜されるに至りますが、これも加賀派の献金による「永平寺ブランド」のさらなる権威付であった。」(「街道をゆく」)

そうして、末寺16,000を数える大宗派に至ります。

この裏には徳川幕府による曹洞宗に対する強制的な秩序化により広まったという面もあるようです。

「一向一揆で権力に対抗する力を見せた真宗を恐れた徳川家康は真宗を東西の本願寺に分裂させて、勢力を削ぐと共に、結束力の弱い曹洞宗を対抗馬として盛り上げるために積極的に庇護、介入していきました。

永平寺
永平寺

結果として永平寺と総持寺を同格の本山と定め、両山を中心として、全国の末寺を法制的に組織させた。」(「街道をゆく」)

神童にして天才の道元がたどり着いた自らを厳しく律する宗教は、後継者および時の権力者達により、むしろ神格化した道元を求心力とし、大衆に大きく門戸を開いた宗教として変貌して行ったということなのかと思います。

永平寺
永平寺

経緯はどうであれ、民衆に広まり、根づいた曹洞宗の全国の信者が信仰を求めて集いくる本山であり続けてきたことはまぎれもない事実なのだと思います。

司馬は昭和24年に訪れた時には閑静なお寺であったと書いています。戦後、信仰が大きく変貌したのか、終戦直後の混乱期で、メッカを訪れる余裕が生まれていなかったのか・・・

永平寺

どちらかと言うと後者の方なのではないでしょうか・・・昭和24年生まれはまだ団塊の世代・・・戦後の物資不足、また移動の脚も十分でなかったなどの状態であったということはないのだろうか・・・

今日、このごろ、信者、観光客が行き交う中で、時折、垣間見る若い僧達はきびきびした様子で、見ているこちらが清々しい気持ちになります。

永平寺
永平寺

憧れの道場で、厳しい修行を続けていることが想像できます。

曹洞宗の歴史が面白くて、ついにわか勉強で書き連ねてしまいました。自分の会社人生の出発となった鶴見の総持寺のことも少し判りました。

永平寺から出るとさらに雪はひどくなりつつあります。

永平寺
永平寺

帰ろうかと思いますが、ソフトバンクのお父さんが雪の中を走って行ったシーンの朝倉邸跡を見せたくて一乗谷に無理やり入りますが、駐車場から朝倉邸に近づく道は雪に閉ざされており、歩くのを諦めざるを得ませんでした。

敦賀について昨日に増して美味しい夕飯をごちそうして、御満悦で帰っていただきました。(と思います。)

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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