西明寺向かいの茶屋を出て、高山寺に向かう道は周山街道にでて、バス通りを歩くことになります。
西明寺までは比較的鮮やかな彩りを見せていた紅葉は遠のいて行きます。
実は、高雄の三ヶ寺の中では一番高いとこにあると思われる、世界遺産高山寺に紅葉最盛期を期待しているところがありました。
実際には時期が早かったのでしょう、高山寺には紅葉はほとんど観られずに、ごく一部に限定されていました。
以前白山スーパー林道や、林道法恩寺線などで感じたのですが、林道の道路沿いよりも、滝が落ちていたりする、水場の辺りの紅葉が鮮やかでした。
今回も清滝川沿いの紅葉がそれなりに早く色づいていた様な気がしますが、水辺を離れた神護寺の境内の紅葉が一番紅くなっていたことの説明が難しい。
神護寺境内の紅葉は人工的なケアが行き届いて居て、整備されていると言うことなのかしら・・・
高山寺の境内は広く、山門から金堂にいたる参道の廻りは、昔は伽藍が立ち並んでいたのだと思いますが、今は林が連なるだけで、建物はありません。
室町時代の戦乱期に伽藍の大半を焼失、江戸期に一部回復したものの、明治になり、また荒廃したということです。
唯一残った鎌倉期の建物、「石水院」(国宝)が元々の場所、金堂の脇から現在の場所に移転されて、公開されています。
落ち着いた雰囲気の中で抹茶をいただきました。
高山寺は774年(宝亀5年)、光仁天皇の勅願により、神護寺の別院、神願寺都賀尾坊(とがのおぼう)として開創され、814年(弘仁5年)に栂尾十無尽院と改称。
鎌倉期に中興の祖、明恵上人が現れ、1206年(建永元年)、後鳥羽上皇の帰依を得て、堂坊を復興し、上人が実質的な開基とされている。
後鳥羽上皇から賜った直額「日出先照高山之寺」から寺号を高山寺と改称した。
Wikipediaの明恵上人の説明に、神護寺で修行を始め、さらに、東大寺、建仁寺で学び、華厳宗、真言宗、律宗、禅宗を極めた。
とあり、さらに華厳宗の項に、「明恵上人が華厳の教えに密教思想を取り入れた」との記述があります。
高山寺でいただいた縁起によると・・・
「上人は限られた宗派、教説にとらわれることなく、ひたすら本師釈迦牟尼世尊に随順し、その教えのままに生き、清純無垢な無我の行者、真の仏弟子として生涯を貫かれたのである。」
また、Wikipedia に明恵上人は菩提心(悟り)を大事とし、法然上人の唱える念仏を唱えることにより、極楽往生するという「専修念仏」を批判しつつ、法然上人との交誼を絶やさなかったという記述があります。
仏教の教理をアカデミックに追求しつつも、人間として大きかった方なのかと。
石水院の拝観をお願いし、御朱印を頼みながら、確認すると、個人使用の写真であるなら、院内の撮影はOKであるとのことでした。
高山寺所蔵の「鳥獣戯画」は京都博物館の平成館のこけら落とし・・・自分はいかなかったのですが、熱狂的な集客をしたことは記憶に新しいところです。
「鳥獣戯画」は、正確には「鳥獣人物戯画」と言うタイトルで、甲乙丙丁4巻からなり、甲、乙が東京博物館、丙、丁が京都博物館に預託されているということです。
甲は擬人化された動物、乙は実在・空想の動物を合わせた図、丙巻は前半が人間風俗、後半が動物戯画、丁巻は勝負事中心の人物画と言う構成になっている。
「鳥獣戯画」と、人物が抜けたタイトルが一般的に用いられているということは、きっと甲、乙がメインと捉えられているということなのでしょう。
「鳥獣戯画」は一人の作者によるものでなく、多くの絵師あるいは僧侶の手によるもので、甲、乙が平安後期、丙、丁は鎌倉時代の作品と考えられているのだそうです。
高山寺の落款を押印したレプリカが簡単な硝子ケースに納まっていました。この時期には九州に行ってて、博物館にも不在ということでした。
高山寺の紅葉は外れでしたが、三尾でゆっくりと1日を過ごし、大満足で、京都駅に戻り、時間が早かったので、新幹線駅に近いビアホールで一息ついて、千葉に帰還しました。