通勤の道のアカシアが満開状態になってきて、今頃、今年の桜の整理です。
前日の金ヶ崎の桜の開き具合を見て、これは南に行けば満開の桜に遭遇できるに違いないと、懸案の彦根城を目指します。
滋賀に入りひたすら8号線を走っていると道端にある桜はほとんどつぼみ状態で、ちょっと話が違いそう・・
まあここら辺は雪が多いところだし仕方ないんだよ、不安が膨らみつつ、言い聞かせながら、走ります。
街中に入り、湖岸に近づいた長浜城址の桜も今一の感じです・・・彦根市内に入ってもこれは変わりません。
お城にたどりつくと、水辺の桜の花の色は満開の一歩も二歩も手前という感じでした。
それでも彦根城周辺は多くの車が押し寄せてきます。彦根城の前にある彦根キャッスルホテルのレストランの駐車場に駐車。
出発が遅く、もう、昼近くなっていたので、ついでに和食レストラン橘菖さんでランチにします。おいしそうな御膳で、ついビールを一本。
お店の方に伺うと、こんなに桜が遅いのは記憶がない程とのこと・・・
昨年の醍醐寺は遅かったし、今年は早すぎと、桜のジャストミートは難しい。
咲いている部分の写真を集めてみますが、満開の華やぐ雰囲気にはやはりなにか足りないような気がします。
近江八景ならぬ、琵琶湖八景「月明かりの彦根の古城」というのがあるそうです。
ちなみに、「琵琶湖八景」は琵琶湖全周の地域を対象として昭和25年に制定されたもので、以下のものがあり、滋賀県のホームページで写真入りで紹介されています。
- 「夕陽:瀬田・石山の清流」
- 「煙雨:比叡の樹林」
- 「涼風:雄松崎の白汀」
- 「暁霧:海津大崎の岩礁」
- 「新雪:賤ヶ岳の大観」
- 「月明:彦根の古城」
- 「春色:安土・八幡の水郷」
- 「深緑:竹生島の沈影」
桜以外のエンターテインメントを・・・
そういえば市長さんが試乗していた敦賀の3輪タクシー街で見たことないな・・・
噂のヒコニャンは大勢の観客の前で演舞していました。
可愛いでしょ?ポーズの連発に、隣で見ていた若い女性が「なんか、むかつく・・・」とつぶやきます。
「じい」は思わす吹き出してしまいました。
まあ、年寄りにはユルキャラより、お花見犬の方がほっとします。
入場券は彦根城、玄宮園、博物館の3点セット券を購入。
お城から見ようとするとモギリのおばさんが「まず博物館を見なさい。そうじゃないと戻ってくることになるよ」と、のたまわります。
俺の気分はまず城なんだから、おばさんに指図される謂れはない。
いいからいいからと入ろうとするくまをしつこく説得しようとします。
ようやく突破すると今度は後ろの夫婦を掴まえて、博物館に向かわせます。
理解できないおばはんでした。
結局、城を抜けて、玄宮楽々園をとおり、博物館に戻る一周コースになっており、来た道を戻らずに、楽しむことができました。
この方が最後に博物館で知識の整理ができて最適のような気がするのですが・・・
彦根市教育委員会ホームページの説明をお借りします。
「彦根城は彦根山(金亀山)を利用して築かれた平山城。
山頂には国宝天守があり、その周囲を巡るように重要文化財の各櫓が残っており、麓には下屋敷をはじめ内堀や中堀などが当初の姿を留めています。
国宝のお城は現在、彦根、姫路、松本、犬山城になります。
現存する12の古来の天守閣の中でも、最古とされている丸岡城が地震の崩壊で、国宝指名をはずされたことはよく知られていることですが、丸岡の地元では再度国宝指定を得ようと努力を始めたようです。
この彦根城跡は、全国的に見ても保存状態の良好な城跡で、昭和31年7月19日、国の特別史跡に指定されました。
なお、下屋敷は昭和26年6月9日に「玄宮楽々園」として国の名勝に指定されています。 」
さらに歴史を見ると・・・
「徳川四天王の一人に称えられる井伊直政は関ヶ原合戦後の論功行賞により、石田三成の居城であった佐和山城を与えられます。
慶長6年(1601)正月、直政は上野国高崎城(群馬県高崎市)より佐和山に入ります。
直政は、関ヶ原合戦で受けた鉄砲傷が悪化して翌年亡くなりますが、嫡子直継は若年で、直政より後事を託された家老木俣守勝は、城の移築計画を進めます。
何故、佐和山ではなくて、彦根に移築しなければならなかったのか・・・明確な記載はありません。
佐和山は三成の印象が強過ぎるため、広く、徳川の代になったことを印象付けるために、佐和山に代わる、拠点を明示する必要があった・・・ということなのでしょうか。
いずれにしろ、その後の幕府を挙げての築城工事は井伊家の意向ではなく、家康の意思が働いていたと考えることが出来るのだと思います。
徳川家康の許しを得て、慶長9年(1604)7月1日、佐和山城の西方約2kmの彦根山において、新たな築城工事が始まりました。
築城には、途中大阪冬の陣、夏の陣の中断を含めておよそ20年を要します。
前期工事として、本丸や鐘の丸などの城郭主要部が築かれます。
幕府から6人の奉行が派遣され、近隣諸国の大名に助役が命ぜられるなど、天下普請の様相となりました。
豊臣恩顧の大名が多い西国への押えの拠点とされ、完成が急がれたということのようです。
事を急ぐために、普請に必要な材木や石材を周辺の古城や廃寺から集められ、天守そのものが大津城天守を移築したものと伝えられています。
数年ののち、城郭の主要部はほぼ完成。
慶長19年(1614)、豊臣勢力の一掃を策した大坂冬の陣が、また翌年には夏の陣が勃発します。
彦根城の築城工事は一時的な中断をよぎなくされました。
大坂の陣に出陣し活躍するのは、病弱の直継に代わった弟の直孝でした。
大坂の陣後は、この直孝によって後期工事が再開されました。
後期工事は彦根藩単独で実施され、城下町にいたる城郭の全容がほぼ完成しました。 」
天守閣の周りは早咲きの桜と梅が入り混じっていました。
城を抜けて下って玄宮園に下っていく道は石垣が苔むして、感じがいい・・
玄宮園について、また彦根教育委員会の文章をお借りします。
「玄宮楽々園は彦根藩第4代藩主・井伊直興が廷宝5年(1677)に造営を始めた彦根藩下屋敷槻御殿です。
広大な庭園からなる玄宮園と建物部分の楽々園で構成されています。
玄宮園は、中国の瀟湘八景あるいは近江八景をまねたといわれる回遊式庭園です。
池に臨んで、臨池閣や鳳翔台などの建物が設けられています。
楽々園は、「玄関」「御書院」「地震の間」「楽々の間」などの建物で構成されています。
「地震の間」は耐震構造の茶室、「楽々の間」は楽々園の名の由来ともなった数寄屋建築です。
11代藩主井伊直中の退隠時には現在の10倍近い建物が材立していました。」
お茶席があり、お抹茶をご馳走になります。
涼しい風が通り過ぎて、しばらくのんびりと池を眺めて休憩です。
お城とお堀の景観、石垣に囲まれた道、池のある庭園といろいろな要素がそろっていて、なかなか面白いところだなと・・・
今までなんとなく人ごみに巻き込まれそうで敬遠していましたが、四季折々を味わいにくるのもいいのかなと思いました。
玄宮園をでて、お堀に沿って、博物館に向けて歩きます。
彦根城に着いたときからだいぶ時間がたっており、暖かい陽射しが桜を少し開花させて、にぎやかになってきているような気がしました。
博物館は展示ゾーンと藩主の生活の場であった場所を示す、木造棟に分かれます。
井伊家は戦の際に甲冑、旗指物を朱色で統一し、「井伊の赤備え」と称されます。
家康が若い直正のために、武田の遺臣を用意し、その旧武田の部隊にあやかり、赤で統一させたのだそうです。
能面のコレクションは大正から昭和にかけて十五代直忠が集めたということで近年のもののようです。能面の豊かな表情はなかなかいいものです。
哀愁があるというのか、人間のあるときの感情を瞬間的に凝結させた表情をしているような気がします。
作者の人間観察の深さを感じます。
木造棟の庭に遅れた枝垂れ桜と山茱萸(さんしゅゆ)がありました。
山茱萸ミズキの類なのだそうです。
博物館をでるとすっかり陽が翳ってきています。このまま待ってライトアップを見ようかとも思いますが、それにはまだまだ時間が必要のようです。
外堀の周りを少し歩いて、帰りがけに、長浜でライトアップしていたらそれを見て帰ろうと、帰途につくことにしました。
結局、長浜はライトアップをしている様子はなく、真っ暗でした・・・なんとなく桜は2年連続の空振りに終わりました。
まあ少しはかすっている感じですか・・・