12月15日は妙顕寺をお詣りしてから、本法寺で庭と等伯の大涅槃図を愉しみ、相国寺を拝観、相国寺美術館を観て千葉に帰ります。
妙顕寺は以前、お詣りに行ったのですが、お寺の行事の日にあたり、御朱印はいただけるけど、拝観はお断りしているとのことで、再度お詣りにこようと考えていました。
「具足山 妙顯寺は鎌倉時代後期、元亨元年(1321)、京における日蓮宗最初の寺院として創建された。日蓮より法華宗布教の遺命を受けた日像上人(1269~1342)が開山。
日像の布教活動は叡山派諸寺から迫害を受けるが、数々の法難を乗り越え、後醍醐天皇より法華経布教の勅旨を賜り、勅願寺として妙顕寺を創建、法華教の教え拡大の礎を都に築いた。」(妙顕寺公式サイト)
「しかし、京都での比叡山衆徒による法華教への迫害はさらに著しく、至徳4年(1387)、妙顕寺は破却され、妙顕寺の住持、日霽(にっせい)は難を避けて若狭小浜へ逃れた。
日霽筆「曼荼羅本尊」が小浜本境寺に残されており、法難との関わりを示すものとして貴重である。
本境寺は当時存在しておらず、避難した当時の詳細は不明であるが、日霽の例を見ると、若狭が安全な地と考えられていたのだろう。
京から小浜への宗門の避難は以後においてもあったようである。」(『福井県史』通史編 室町期の若狭の法華宗)
日霽はその後、京に戻り、明徳4年(1393)に妙本寺(後に妙顕寺)を再興。
妙顕寺は場所を転々とし、最終的に秀吉に定められた現在地に移ったが、天明の大火(1788年)で伽藍を全焼し、現在の伽藍は当時に再建されたものである。
本堂の天井には狩野義信による龍の絵があったが、昭和の代に、出入りする鳩の糞が蓄積した重みで、天井が落ちてしまったのだそうです。
約200年に渡って、天井裏に出入りする鳩の糞の重み…ってどれくらいになるのだろうか…
修復不能で、現在は天井復旧の際に、寄付された方々の家紋が描かれているのだそうです。
確かに、よく、沢山の枡目に描かれた絵がある天井を観ますが、絵の代わりに家紋が描かれていました。
15日朝遅くに、ホテルに荷物を預け、出かけます。今出川で地下鉄を降り、妙顕寺に向かって、歩き始めて、すぐのところに由緒ありげな門がありました。
門の脇に立て札があり、尼寺の大聖寺門跡で、庭園が京都府指定名勝になっているとのこと。
大聖寺門跡はかつて「花の御所」と呼ばれた足利幕府の地にあり、現在地が唯一、花の御所を偲ぶ史跡にもなるということらしい。
門内には入れましたが、建物は閉じられており、取りあえず、外部の写真だけ撮らせていただきます。
ちょうど、通りかかった尼僧にお訊きすると、内部の拝観はできない。御朱印はいただけるとのことでした。
御朱印を待つ間、壁に貼られたお寺の縁起を書いたパネル、庭園が写った写真を眺めていました。御朱印をいただいて、さあ、妙顕寺だぞと。