前から行ってみたいと思っていた三国に。
思いたったのが9時頃で、結局三国に着いたのはお昼近く。
歩いているうちに5時を過ぎてしまい、全部を廻ることが出来ませんでしたが、写真の江戸小唄の「竹よし」さんなど面白いところが満載でした。
竹よしさん、演奏中は顔がゆがむので、写真は使うなと、笑顔の写真もいただいたのですが、自分はむしろお仕事中のお美しさがあると思うので・・・ごめんなさい。
ただし、写真はクリックしてもおおきくなりません。
えちぜん鉄道に乗りたかったので電車で行こうと思いましたが、結構時間がかかりそう。
車で出かけますが、それでも歩き始めたのは昼ごろになってしまいました。
三国港駅の駅前に駐車して、駅で案内マップをもらいます。
親切に歩き方を教えてもらいました。東尋坊の方に歩いて行くコースもあるみたいですが、目的は旧市街を歩くことなので、三国神社を目指して南下します。
まあ、いつもの調子で寄り道が多すぎて、三国神社にはたどり着かずで、再戦を期すことになりました。
歩き出すとまだ夏の名残りが濃い陽射しがきついです。
ただし、港の上に若干、雲はありますが、気持ちの良い空が広がっていて、爽やかです。
もっと観光客がいるのかと思いましたが、街を歩いている人はいません。
食事に入った魚志楼は団体さんが入っていましたし、旧岸名家とか森田銀行の辺りまで行くと、家族連れやら、団体さんらしき人達がたむろして居ました。
車で廻ったり、街の中央の駐車場に車を置いて歩いているようで、自分のように端から歩く人間は少ないみたい。
こんなに面白い街を勿体無い・・・と、歩いたところをすぐ気に入ってしまう「くま」は思います。
最初にぶつかるのが永正寺なのですが、どこを見てもお寺の名前が見つかりません。
裏に廻るとバス停は「永正寺」でした・・・
足元に目を向けると、道端に永正寺の由来を記載した案内碑がありました。
街中にこのような施設の説明や、三国詩歌文学館という三国の文学にちなんだ由来の説明が設置されています。
三国は北前船の寄港地として栄え、花街には、茶屋や芸者置場(置屋)、貸座敷(遊郭)が鼎立、当時は芸者80人、遊女100人を数えたのだそうです。
遊女の中に、俳人として名を成し、遊郭を経営するまでになった哥川がおり、この永正寺は彼女の菩提寺になっているのだそうです。
お寺の中に哥川の句碑があります。
哥川の代表作は色々あるようですが、前出の「竹よし」さんのお店の前にかかげてある句が、『奥底の知れぬ寒さや海の音』でした。
北陸の冬の鉛色の空の下で足元に押し寄せる荒れる波・・・凍れる空気に晒されながらそれを港(東尋坊?)に立ち、見つめる遊女・・・その想いは・・・
遊女出身の俳人哥川が出たことから判る様に、三国は俳句が盛んだったようで、後で訪れる旧岸名家では俳句の会が催された部屋の様子が残されていました。
後述する森田愛子も、この三国の環境の中で、その短い命を燃やしたということなのかと。
永正寺から先に歩くと骨董品の加藤吉郎平商店。「煙草元賣・・・」の看板に感激です。
少し離れて新明社(神明神社)があります。
敦賀の新明社と同様の地元と密着した神社なのだと思いますが、神社にあった由来によると、天照大神と継体天皇を奉斎しているとのこと。
継体天皇の在所があった牧岡を神社名としていたが16世紀に神明社と改称されたのだそうです。
神明社の入り口脇には三国祭りで活躍する山車の収納庫があり、なかから山車に搭載されている張子が外を睨んでいます。
この山車蔵が街のいたるところに見られました。
歩き始めたばかりですが、通りかかった魚志楼さんで食事を。
表に6,000円のコースの案内があり、びびりますが、中に入るとメニューが表示してあり、1000円程度からランチがあります。
ちょっと贅沢な高めのコースを選択して、瓶ビール中を一本。
車で来ているし、ダイエット作戦で普段は飲まないようにしているので、ちょっと考えましたが、どうせ夕方まで歩き続けるのだからいいだろうと・・・
中は結構な人数のお客さんが居るようです。小上がりのテーブルはお客でふさがっていて、カウンターに座ります。
奥の座敷も人がいるようで、多くの靴が並んでいます。えちぜん鉄道の主催しているツアー客達が奥座敷で昼飯をしているとのこと。
カウンターに並んで座ってるお姉さん、えち鉄のツアコンのようで、食事を終えて懸命に書類の整理をしています。
勝山から来ているとのことで、「是非、勝山に遊びに来てください。」って・・・
「おねいさん」が居てくれるなら何時でも行くよと、乾いた身体にビールが染み込んだ「くま」はぶっちゃけそうになりますが、抑えて、大人の笑顔(?)でうなずくだけにしておきました。
美味しい食事でしたが、またそのご飯の美味しい事・・・口の中で粒々がはっきりしてして、旨味のあるお米・・・久しぶりの感触です。
支払いの時に、その旨を「炊き方が上手なんだと思うけど・・・」と伝えると、大野の無農薬栽培の米で、皆さん、美味しいって言ってくれますとのことでした。
ご飯を食べて元気になって、三国あるきの再開です。
三国は文学の香りが色濃く漂う街で、三好達治が5年間三国で生活していた時に、通い続けた料亭が「たかだや」なのだそうです。
ここから暫く歩くと高見順の生家が出てきます。
街のあちこちに掲げられている「三国詩歌文学館」という掲示の一つ、森田愛子についての説明があります。
句誌「花鳥」の創立者である伊藤柏翠は結核の療養所で森田家の令嬢愛子と知り合いになり、彼女の心の支えとなるべく、三国に住まいを移します。
まもなく愛子は逝去しますが、柏翠は三国を終の住家として活動を続けたのだそうです。
柏翠は高浜虚子の弟子で、愛子は高浜虚子が認める俳句の才能豊かな人であったということです。
以下、三国観光協会のホームページの説明で三国の歴史を確認します。
『三国は1700余年の歴史をもつ港町です。
三国港は中世に開かれ、朝倉氏、柴田氏など歴代国主の支配と保護を受け、港町としての機能を整えていきました。
江戸時代に人口が増加し、現在の市街地の概観ができあがったと考えられています。
江戸中期に、北陸の船乗りたちが大阪と北海道間を物資輸送しこれを売買して差益を得る「北前船交易」をはじめると、三国でもやがて廻船経営に力を入れ始めました。
江戸時代後期には三国は日本海側有数の北前船の中継基地に発展、森田家・内田家といった豪商がうまれました。
商業の発展は、町人文化・工芸技術をも開花させ、港は大いに賑わいました。
幕末期から明治初期の港の最盛期には、オランダ人技師による龍翔小学校の建設、日本発の西洋式工法の三国突堤の建設など大事業が行われました。
しかしやがて鉄道が通り始めると港湾機能が低下し三国港は商港の役割を果たし、漁港へと転換してゆきました。』
なかなか竹世志さんにたどり着きません。続くです。