2月13日(日)は渋谷Bunkamura The Museumの「モネとジヴェルニーの画家たち」展に。
朝はいつものようにケイちゃんとクマを・・・クマ、最近調子悪くて元気ないらしい。
自分にいつも食ってかかる生意気なネコだったのに元気がなくなっちゃうと寂しい。
相変わらずの喧騒の渋谷の町を抜けてBunkamuraにたどり着きます。
今回のBunkamura The Museumは「モネとジヴェルニーの画家たち」展です。
モネが晩年を過ごし、一連の睡蓮の連作などの舞台となった地、ジヴェルニーにはモネを慕って多くの画家が訪れたそうです。
「ジヴェルニーはパリから約80キロほど北西に位置するセーヌ川沿いにあります。
モネが移住した当時のジヴェルニーは、300人ほどが暮らす典型的なフランスの農村で、セーヌ川およびセーヌの流れが生み出す丘陵が織なす穏やかな四季それぞれの光景が展開していました。
この村はモネが描いた睡蓮、積みわら、ポプラ並木などの作品によって世界に広く知られることとなります。
モネの友人であるボナール等を含め、19カ国を超す300人以上もの芸術家がここを訪れています。
印象派の作品を早くから受け入れていたアメリカの画家たちは訪問者の大半をしめており、さらにジヴェルニーに住見込む画家も多く、最大時は50人を超し、さながらアーティストのコロニーの観を呈していたのです。」(Bunkamura The Museum)
それらのアメリカの画家たちが造り上げた絵画を「装飾的印象派」と呼ぶのだそうです。
これらの画家たちがモネとどの様な交流があったのかの説明はありません。
モネはジヴェルニーに居を構えながらも、フランス国内、イギリス、イタリア等に題材を求めて歩いていたこと、晩年のモネは訪問者を断っていたなどから考えるとモネが若いアメリカ人達と濃密な付き合いをしていたとは思えません。
画家たちはモネの直接指導を受けると言うことではなく、同じ環境に身を置くことで、題材を、技法をトレースし、独自の「印象派」を形成して行ったということなのでしょうか。
ただし、画家たちの一人、バトラーがモネの義理の娘と結婚していますので、それなりにモネ、あるいはモネ家と彼らとの交渉はあったのだと思います。
「1878年、パトロンの一人であった、エルネスト・アシュデが破産し、国外逃亡をし、モネはその妻アリスと6人の子供を引き取ります。妻カミーユとの間には長男に加え、長女が誕生していたため、総勢10人の大家族になります。
カミーユはその直後に亡くなり、モネは後年、アリスと再婚します。
※この絵は写真を撮る様な構図で面白いと思いました・・・アメリカ人のこだわらない発想っていうことかしら・・・
(家族が増えたことと関連があるのかどうかわかりませんが、)同じ頃、モネは6年過ごしたパリ郊外のアルジャントゥイユを離れ、幾つかの土地を巡り、1883年4月にジヴェルニーに移ります。このときモネは42歳になっていました。」(Wikipedia)
モネは当初、借家住まいでしたが1890年に土地と家を購入し、池を拡張し、日本風太鼓橋を造り、蓮を浮かべます。また花壇のある庭を整備して行きます。
これらはモネの画題になると同時に、睡蓮の池と庭自身がモネが創り上げていった作品という見方が出来るようです。
以前、スイスに行く飛行機の中で隣に座った老婦人がパリに行って一番印象に残ったのが「モネの家」と言われていたのが印象に残っています。
このジヴェルニーの家のことだったのだろうと思います。
自分もいつかモネが愛したジヴェルニーの自然と「モネの家」を感じてみたいと思います。
帰る日を心配する必要のない、自由な時間を得たら、スケッチを始めたいと思っていますのでジヴェルニーで・・・と、言いつつ、人前でスケッチブック広げるのは勇気が要りそうで・・・実現はしないかもしれません。
「モネの睡蓮の絵は1890年代には岸に生える柳の木や、太鼓橋などのモチーフが描きこまれていましたが、1900年になると画面の全てが水面でおおわれる様になり、水面に浮かぶ睡蓮、水中の茎や水草、水面に映る空や樹木の反映が渾然一体となって描かれています。
モネは白内障を患い、失明寸前で画面が限りなく抽象に近づいていく。」(Wikipedia)
眼で見た物を描く代わりに、自分の中にある心象を絵に表すということ・・・なのかしら。1909年から1913年頃には視力のさらなる悪化のため創作活動も停滞していたのだそうです。
上記のWikipediaの記述はこの記事を書こうと思って知ったのですが、展覧会で下記の絵に魅かれて、暫く立ち止まり、ぼんやりと考えていました。
この絵は実は自分の部屋を飾る5枚目の絵となります。
この絵では、対象となる樹木は形象が 明確でなく、空と混じり合うようで、草原は光輝く海の様な佇まいです。全体的に春燃え立つ(実際には春ではないのかもしれませんが・・・)いい絵だなと思ったのです。
製作は1888年ですから視力が極度に悪化する前の作品だと思います。視力は衰えていたのかもしれませんが、それとは別にモネ自身の表現方法自体が抽象に向かっていた、ということはないのでしょうか?
有名な「ルーアン」、「国会議事堂」や「積みわら」連作でも形象が霧や夕暮れ等の中に溶け込んでいくような傾向があるような気がします・・・
「印象」と「抽象」の違いはなんなんだろう・・・「抽象」絵画とは字義通りで言うと、物事の本質、あるいは画家が見出した特徴を取り出してキャンバスに表現すると言うことだと思います。
「印象派」絵画も対象物の印象を強調して表現するということでは違わないでのはないのか。
対象物の象形にこだわらず、自由に表現するのであれば「印象」を語ることと事物を「抽象」して表現することの違いって画家にとって意味があることなのだろうか・・・
と・・・素人が絵の入り口付近で訳のわからないことを考えたということです。
カンディンスキーと青騎士展で下記の絵がいいなと思い、変わり目のカンディンスキーだったら付いて行けるなと感じたこととモネの上の絵を観たことが、なにか一つ自分の中で好きな絵というものの見方が変わるような・・と、まあ、振りかぶるほどのことではないのですが。
ちなみに抽象画のカテゴリには下記の種類があるようで、簡単に抽象絵画と括ることはできないようです。
「抽象絵画の源流は、主として「ドイツ表現主義」からと「キュビスム」からの2つの流れがある。
1.ドイツ表現主義からの流れは、カンディンスキーやフランツ・マルクなどの作品にあり、パウル・クレーの一 部の作品も含めることができるかもしれない。カンディンスキーやマルクの作品は、抽象的でありつつ、有機的な形態を持っていたことに特徴がある。
2.キュビスムからの流れはパリの美術運動「オルフィスム」からはじまり、ドローネー、クプカ、フランシス・ピカビアなどが抽象的な絵画を描いた。 これらは、幾何学的な形態表現を特徴としている。 」
自分がいいなと思うのは前者の方ということなのでしょう・・・
閑話休題・・・
「ブランシュ・オシュデ・モネはアリスの娘で、(と言うことはモネの義理の娘になりますが、)ブレックとの結婚をモネに反対され、モネの実の長男ジャンと結婚します。
ジャンの死後、ジヴェルニーに戻り、絵の勉強をしますが、一時絵を捨てて、モネの晩年を看取り、その死後、絵を描き続けた」のだそうです。 ( Bunkamura The Museum)
今まで、たどって来た画家の話には必ずと言っていいほど周りに居た女性の話がでてくるような気がします。そう言う話をまとめると面白い読み物が出来るかもしれない・・・
次回はフェルメールの<地理学者>が目玉のフランクフルト シュテーデル美術館所蔵のオランダ・フランドル絵画展・・・これも面白そうです。
Bunkamuraの後、広尾に移動。「くま」家が時々利用するイタリアンレストラン、「イル・ブッテロ」で娘の旦那さんの転職祝いを・・・赤ワイン2本を空け、大満足。
娘の運転で夜の東京を眺めながら帰宅しました。